知らぬ間に水泳部員に…
私はおよそ60年前に広島市中区の中の棚の植田産婦人科で生まれました。「和久」と言う名前は、その時の院長、植田先生に名付けていただいたそうです。後に聞いた話ですが、植田先生は、水泳団体『広島万泳会』の会長を務められていたとのことで、今考えると、生まれた時から少なからず水泳に縁があったのかもしれません。小学校は観音小学校に通いました。そこには小学校としては珍しい“50メートル”のプールがありました。ただ、そもそも私の家庭は両親も含めて水泳には全く縁が無く、小学校2年生の時に従兄に教えてもらったのが、私と水泳との出会いです。ちなみに、小学校5年生の時には板キック(当時のビート板は本当に木の板でした)が得意で、自信がありました。よく一番になっていたのを思い出します。
そして、小学校の6年生の時、担任の先生から突然、「水泳部に入部届け出しといたから」と告げられ(笑)、本格的に水泳の練習をはじめるようになったのです。当時の私はスポーツが苦手で、何かとどんくさい少年だったのですが、なぜか水泳だけは得意だったということもあり、先生が見かねて水泳部に入れたのでしょう。ですので、体育の授業の中でも唯一、水泳の授業の時間は楽しかったのを覚えています!
自主練に明け暮れた中学時代
中学校に進学すると部活動が義務となり、やはり水泳部に入部しました。当時の水泳部の顧問は、教員の広島県代表選手である浦先生という偉大な方でしたが、中学
校では週2回しか部活動がありませんでしたので、本格的には教えていただけず、自主練習を毎日のようにしていたのを思い出します。
その他、中学時代の部活動の記憶としては、大会に出場して呉の市営プールの水が冷たかった(笑)ことと、呉線でSLに乗ったのを今でも覚えています。
勉強なんてそっちのけ
高校に進学後、中高一貫ということもあり、自然な流れで水泳部に入部しました。しかし、当時の広島県の高校水泳は全国的に強く、とてもレベルが高かったので、自分のレベルではとても太刀打ちできず、高校2年からは水球もはじめていました。ですから、当時は水泳には本気になって取り組んでおらず楽しむばかりで、今のように『水泳』に携わるような仕事に就くなどとは、夢にも思っていませんでしたし、そもそも将来の夢なども考えてもいませんでした。(笑)
ちなみに、当時「金メダルへのターン」というテレビドラマ(懐かしい~♪)もあり、「飛魚ターン」というのを真似しては遊んでいました。そして、毎日のように水泳で遊び疲れ、帰宅してからすぐに寝るので、親からは『勉強しなさいよ!』と連日怒られつつ、朝4時くらいに早起きしては『オールナイトニッポン』や『おはよう浪曲』といったラジオ番組を聴きながら勉強していました。こんな感じで、毎日水泳を楽しみつつ、ボーっとした学生生活を過ごしていたように思います。とにかく毎日のように泳ぎ、水泳を楽しんでいた学生生活でした!!
大学は、京都の同志社大学に進みましたが…なんと!そこでは水泳部には入らなかったのです!